今日はいつもの職場から出張して小規模の会議だった。終わったのが6時過ぎ。帰宅したのは8時だった。
連休とはいえ、暦通りのお仕事状態である。
今日は一日雨だった。帰宅するころには少し肌寒い気温だった。風が強かったせいか体感温度も低かった。
昨日洗っておいたはずのブラシが少し硬くなっていたので洗い直した。油彩も樹脂をけっこう入れたりしているのでもっと丁寧に洗わなければならないのかな。
洗浄液は文房堂のアプト液を使っているけれど、石油系の方がいいのかなとふと思ったりした。
画面については「質感やディテイル」と「全体のにおい」、それらから振動するように想起してくる「風景」のことを考えたりしている。
この「風景」は形があるようでないようで、けれどもしっかりと胸の奥からしみ出てくる「風景」である。最近、描くことで表出するものが「風景」という言葉に置き換えるとストンと腑に落ちるのだ。言い換えれば、わたしの底に確かに存在する、あるいは存在したはずのものを表現したいといつも思っているわけでそれがこの「風景」なのだろう。「風景」は個々の再生可能な断片であることもあるし、突拍子もないイリュージョンであったりする。
元来、狭義の具体的モチーフとしての風景にしても、単に主体と客体といった二律背反しては扱われてはきていないはずである。絵画表現に限らず、外と自分自身の身体を峻別する境界は、たとえ肉体的な制限、物質的な制限においてもないといえる。私自身が外であろうし、外も私自身の一部なのである。それはミクロコスモスとしての細胞や肉体といった科学的な実証を大きく越えて、私と外とはゆるやかに溶け合って振動しているからなのだろう。
「風景」を描く理由は、それが外と内が振動する思考主体としての自分の存在証明に代わると考えるからであり、可能な限りていねいに、慈しみ、すくい取るようにそれらを敷衍していきたいと思う。だから私にとって絵画を描くことは、「風景」を記憶の底からたぐり寄せあるいは押したり引いたりやりとりする作業になり、言語表現に寄り添う漸近線のようにありつづけるのだろう。
発表される「作品」は、私の底の風景と、自分自身を含む現在とのやり取りの所作の痕跡を残し続けることになろうし、「作品」が少なくとも私の生き方の提示になり、有効な手段となりうる。 (2007.5.7改)
<今日聴いたCD>
「The Sinking Of The Titanic / Gavin Bryars」
ギャビン・ブライヤーズ。現代音楽。タイタニック号が沈んでいくときに演奏されていた曲をモチーフに展開。独特の冷たさと美しさの対比。ヘッドフォンを買い変えてから(SONY-MDR-EX85)ものすごく細かな効果音が入っていることに気づいた。気がきしむ音。遠くに聞こえるラジオのような声。水滴の音。
死とそこから照射される今の自分の姿。かつて宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で提示した命のことがイメージされる。
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