昨日は午後から大阪神戸方面へ。
梅田から徒歩で国立国際美術館、「もの派再考」展。
概念的な理屈が先行しがちだが、しっかりと作品を見ること・感じることで得るものは予想以上に大きい。
美術館というハコの中だが、それを越えてもなお輝くものがあり、もの派と言われた作家たちの後の作品展開にも現れている気がする。
それは「アクション」という分かりやすすぎる言葉にまとめられていたジャクスン・ポロックの作品が、スキャンダラスな「行為」以上に絵画としての質が評価され丁寧な検証がなされ、見えてくるものがあるのと同様に...。
だから、常々思っているが、社会批評から美術批評を立ち上げるのではなく、作品のマクロで視覚的な検証から社会へと展開していくのが本筋なのだろう。
絵画作品については特にこのことが今後重要になると思う。
例えば作品資料から、簡単に「明快」にまとめ上げることで語られる美術批評の「あいまいさ」についてもっと考えなければならないのだろう。
キュレータ・批評家と呼ばれる人たちがどれだけ丁寧に現物の作品を目にしているのだろうか?
そういう意味で作家はとても弱い立場なのかもしれない。
「言語」というコミュニケーションのフィールドでは、「言語」で作品が語られ、「言語」が享受され認識されるのである。情報インフラが先行すればその加速度は増す。
作品の現前性なしに語られるフィールドは以外に作家不在・作品不在である。
作家としては、言語を超えたり、すり抜けたり、言語にしみ込んだりする作品を...。
その得体の知れないところに多く、作ることへの衝動があるとおもうし、一生続く作品制作のマラソンには必要不可欠な酸素である気がするのだ。
...そんなことを考えた。
「もの派」の後、信濃橋近辺、老松通り近辺とギャラリーを巡る。
そして、神戸のギャラリー夢創館へ。
小杉+安藤さんの展覧会。
インタラクティヴな装置。
当日は凍りつきそうな空気の天候だった。
作品はコンピュータ制御だが、語られる内容はとても身近で深みがある。
だから暗やみからライトに浮かび上がるプロペラの、ことんことんと回る姿は切なく美しい。
とてもいい展覧会で神戸まできて良かったと思った。
失礼を承知でいえば、「やっぱり、うまいよなぁ。」
うってかわって今日は夕刻、閉館時間に石田大成社ホールへ。
塩崎優さんの絵画。溶けるようなあるいは溶けていくような動物や風景。
水彩作品ばかりだったので筆致や作画のモチベーションがストレートに見えるのが興味深かった。
同ホールのキュレータFさんと作家の塩崎さんと絵画について興味深い話などをしばらく。
最終日の観客、迷惑をかけてしまいましたがごめんなさい。
ここは、はじめて訪れたけれど、空間も広く、小品と対比させたりして、最近の私のスタイル横長デカ画面など並べたら面白そうだぞと、帰りのバスの中空想した。
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